オラ無駄堂

「ほぼ発達障害」脳を乗りこなす日々

ごあいさつとFAQ

何者が書いているのか

はじめまして(おそらく)。
山田無計畫と申します。

人間関係にも環境にもそれなりに恵まれていたはずなのですが、幼少のみぎりからある種の生きづらさを抱え、多くのやらかしをしながら、恥の多い生涯を40歳手前まで送って参りました。

本を通して「発達障害」という概念を知った時は遠まきに「あー、なんとなく、ずっと感じてきたコレは、アレなのかなー」みたいな感じだったんですが、個人事業主として生きていく上であまりにも簡単なことがままならずトラブルが続発したために、こりゃあアカン、ということで心療内科を受診(この時点で、あまりに色々ままならないので精神はそうとう荒廃しておりました)。

渡部篤郎と哀川翔の合わさった究極体みたいな先生に、これまた二人が合わさったような喋り方で、「あー、うん、話した感じアレだね、発達障害っぽいねー。うつ病だから行動できないじゃなくて、思い通り行動できないことからメンタルが落ち込んでいるだけだから、安心していいよ」という旨のことを伝えられるも、いやそれって安心していいんかいな、という気持ちのまま、IQ検査を予約。

晴れて、ほぼ発達障害のお墨付きをゲットした次第でございます。

このブログは何なのですか

このブログは、ほぼ発達障害当事者のブログ主が、みずからの特製と折り合いをつけるために心技体(無理に横文字にすれば、マインドセットとライフハックとヘルスケア)という切り口から色々と工夫を重ねてきた(そして重ね続けている)様子を書き綴っていくものです。

「生きづらさを抱えている人が、自分の特性をなんとか乗りこなして、今より少しでも心穏やかに暮らしていけることのヒントになればいいな、キラキラ」という光属性の思いと、「記事書き溜めて、広告でも載せて、小説とかマンガとか大人買いする資金に充てたいぜゲヘヘヘヘ」という闇属性の思いと「ぶっちゃけ細々考えすぎていっぺん書かないともうまとまらなくて、スッキリしねえや」という無属性の思いがフュージョンして生まれました。

ブログ主はどの程度の発達障害なのですか

ブログ主の発達障害は、パラメータ的には軽度です。
投薬不要、法的にはギリギリ障害者扱いはできないよ、という程度。
個別の特性や困りごとについては記事化していきます。

カウンセラー氏に言わせると、限りなく発達障害に近くてほぼ発達障害なんだけど、線引きしたところからは発達障害じゃない側にギリ入る。ただ、生活上に色々不便はありますよね、といった感じ。いわゆるグレーゾーン、ということになります。

発達障害って言って甘えたいだけじゃねーの

たぶん、ご同輩のみなさまはもう飽きるほど人に言われたり、内心で自問したりしているはずの問いでありますが、私自身の返答は、二段階です。

「発達障害という概念は、抱えている問題を解決、軽減、縮小する上で有効なものだから取り上げているだけです」

「そして仮にただの甘えだったとして、何か問題ありますか?」

……の二本です。んがくっく。

まず前者について申し上げましょう。発達障害傾向がある、ということが明確になったこと。これは「巨大不明生物」に「ゴジラ」、「黒いレイバー」に「グリフォン」という名前がついたことに似て、問題が対処すべき「対象」としての輪郭を得たこと。これが実に大きなことであります。

気合いや根性、真心なるものどもの不足、あるいは人格的な問題で性根が腐っている、と曖昧なワードでdisられ続けた私というものの問題点が、どうやら具体的に着実に改善縮小できるものである、という視点。

発達障害という概念のおかげで、いままで自分でもどうしたらいいかわからなかった問題に対して、ようやく軽減・解決の手立てがあるらしいと思えたんで、また私にとっては無意味有害だった根性論の世界に引き戻されるのはまっぴらごめんです

これがどれほど大きなことかは、当事者の方であればうなずける方も多いのではないでしょうか。根性論は少なくともぼくのような発達障害傾向を持つ人間にはほぼ害悪で呪いでしかありませんでした。問題解決に有効な概念だから、しっかり活用していく、と、まあ、そういうことです。

そして後者。

この手の「◯◯は甘え」言説は、多くは外野から発せられ、基本的には弱者をマウンティングするための言葉としてしか役に立っていません。

極端な例ですがね、地球外から来た生き物に「この濃度の酸素のもとでしか生きられないとか甘え」とか言われた場合を想像してみてください。「食事睡眠がないとすぐ死ぬとか甘え」とか言われた場合を想像してみてください。この手の言説の無意味さが染み渡ってくるでしょう。

それにね、甘えるな、と言われたって、気合いや根性をこれでもかと出したって動けないんですわ。少なくとも「甘えないように気合い入れて自責する」いうメソッドがまるで有効でなかったんですぼくには。気合いや根性で長年どうにもならなかったものが、行動分析学や認知行動療法の知見によって裏付けられたメソッドである程度までするすると動けた時は、魔法か!と思いました。

実際に役に立つんだったら、その世界観疾病感がある種の甘えであろうとも、別にいいじゃあないですか。役に立たない厳しさより、役に立つ甘さ、ですよ。

お前のような奴が、程度の重い発達障害者の気持ちが分かるのか!

たぶん、わかりません。

わからないので、じぶんより程度の重そうな当事者の方の本やブログは色々読みました。せめてものあがきです。そしてわかったのは、当事者同士ですらちゃんとわかり合うのはかなり難しい、ということでした。

このような批判に無意識に前提とされているのは「そんな軽症な発達障害の奴が、発達障害者のいち代表のようにブログで情報発信をするのは迷惑だ。同じようなハックを使えばできるはず、と周りに思われる身にもなれ」ということではないかと思います。でも、その「身になる」が本当に難しいのです。程度の重い軽いはさておいて、発現の仕方が千差万別なのが発達障害であります。

ただ、程度が軽いとはいえ私もそれなりな苦労を重ねてまいりました。代表選手を気取るのではなく、あくまでも、無数のサンプルのうちの1として、自分を研究して乗りこなそうとしている方法を発信しているのだ、という点をご理解いただけると幸いです。

例えば「両足が股関節から下がまるごとない人の抱える不便さ」に比べて、「右足首から下がない人の抱える不便さ」は相対的に小さいかもしれませんが、当人にとっては大いに困りごとだったりします。ちょっと微妙な比喩ではありますが、この場合に、後者が後者なりの経験をふまえて「こんな工夫したら良かったよ」と情報を発信することには意味があると考えます。

あるいはこのようにも例えられましょう。「こういう能力のスタンドを、こういうふうに使ってみた」というようなブログです。「どんなスタンドでもこうすれば勝てる」という立場で括るようなブログではない、ということです。……と、これはジョジョのファンにしか通用しませんが。

ですので当ブログは、私という人間が自らの特性ゆえに感じてきた不便さ、生きづらさと、それに対する対策集(便宜上、心技体、むりやり横文字にすれば、マインドセット、ライフハック、ヘルスケアの三種に分類しています)をシコシコとまとめつつ、自分の特性をさらに深く検証研究していくものであり、ある種の実用ノンフィクション私小説とでもいった趣のものであります。

その点、なにとごご理解を賜れば幸いであります。

 

 

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