オラ無駄堂

「ほぼ発達障害」脳を乗りこなす日々

「やらなきゃやらなきゃ」と思っていたことが、いつの間にか「やった」に刷り変わる能力

   

記憶は再創造される

 見事なまでのカウンセリングの予定ど忘れ(大事な予定でも容赦なく忘れる能力参照)のリベンジで、カウンセリング。
 
 さっそく今回のど忘れ(というよりは、記憶の刷り変え)について聞いてみると、これも、ぼくのような「ほぼ発」にはよく見られる現象なんだそうだ。要するに、思考の量やスピードと行動のそれがちぐはぐなため、記憶だけが更新されてしまうことがありうる、ということだ。

 イメージ的にはゴールドエクスペリエンスでぶん殴られた後のブチャラティか。
 
 逆に実際にあったこと、行った場所の記憶が曖昧で、「あれは夢の中だったかのう」という気がしてしまうこともしばしばあったが、それももしかしたらこういう性質の影響なのかもしれない。

 そして「思い出す」時に記憶には不可逆的な更新がかかる。「~かも」という記憶が、想起されるごとに「~だ」として強化される怖れがあるので、それにも要注意。

『現場』に足を運べ

 とにかく強調されたのが「『こんな分かりきったこと!』と思うことほど、実際のメモや物にあたって確認する」ということ。

 芸能人や政治家が適当なことを言った後にそれを覆す物証が出て来て、なんでそんな簡単にバレるウソをついたんだ、とさらに叩かれる例も多々あるけれど、そのうちの幾らかは彼らに悪意があるのではなく、少なくとも「それ」を言った時には間違いない、と思っていたのではなかろうか。

 自らの「ほぼ発」としての特性を理解し始めるにつれて、自分のとった不可解な行動やミスを思い出すにつけ、マスコミによる「社会的制裁」を喰らっている人と自分との間にさほど大きな差はないように感じるのだ。明確な悪意によって罪を犯したり非道徳的な行いをした場合も勿論あるだろうし、悪い行いが脳の特性によるものだからといって免罪にしていいわけではないけれど、ただただぶっ叩いて個人攻撃しても、問題解決には何も資するものではない(いわゆる「個人攻撃の罠」である)。

 

自分を信じない自分を信じろ

 しばしばマンガやドラマの中では「自分を信じろ!」というフレーズが用いられるし、そういうものを通じて、何となく自分は信じたほうがいいのかなーという気がするものだけれど、私とおなじ、言語性IQ>身体性IQな「ほぼ発」の人は、少なくとも過去の自分は信じないほうがいい。やったはず、は結構な率でやってないから。
 
 信じるならば、過去の自分の行動を疑い、今ここでチェックする自分のありようを信じるのだ。

 ……いやあ、油断ならない。もうね、自分という生き物は「基本動かない、動く時は暴走」のエヴァンゲリオンなんだと思って、レバガチャしながらなだめすかして動かすんだ。

 - プロローグ的なもの